昭和四十四年六月五日 夜の御理解
まさかのときには、天地金乃神というに及ばぬ、金光大神助けてくれと言えば、助けてやると、おっしゃるですねえ。そうですね、まさかのときというような事が、いつまたあってはやりきれませんですけれども。もう、いつも金光大神を唱えるところに、金光大神の御取次の働きが、天地の親神様の働きと相俟って頂けてくるようなおかげを頂かにゃならんと思うですね。そのためにどうしてもひとつ、お互いの信心を昨日の信心は、もう昨日のもの。ね、今日は今日の信心。さらのもの。さらなもの、さらな心をもって金光大神と唱えるところにです、まさかのときに金光大神といえば助けてやるとおっしゃる、とおんなじような金光大神が出て来る訳ですね。だから、昨日唱える金光大神と今日唱える金光大神は、言葉にはおんなじであっても内容には、だから違わないけんのですよね。そこんところをひとつおかげを受けていきたい。
今日、久留米の井上さんがお礼に出て見えて、もうほんとに何ていうですかね、なかなかそれこそ、いいとこ通っておられますね信心、ですから子供達までがやはり、信心になっていくんです。昨日もあのー、長女に由美子さんちいいよりますが、高校行きよります、おかあさん今日、とってもおかげ頂いたとこういうんです。
それがあの試験があっとりました、ところが、ひとつのそれが一番点数の、まあ稼ぐその問題が確かにその試験前に、ざっとではあるけれども見とったところであったけれども、どうしても思い出せない。もうほとんど半分はその教室外に出てしまっておる。もう時間は迫って来る。で一生懸命その金光様唱えておるときにですね、先日の学生会の時に光昭先生て、光昭のことでしょう、光昭先生が試験のときにね、そのー、問題が出来ないときにはね、「金光様、金光様」てお願いしたばっかりじゃいかん。ほんとに勉強の不行き届きであったこと、もう不熱心であったこと、ね、一生懸命お詫びさしてもろうてから願わにゃいかん、て言われたことを、その思い出したちゅうんです。
だから、「金光様、金光様」ちゅうてお願いしよったその気持ちがですね、そのお詫びするということによって違う「金光様」が言えたちゅわけですよね。そしたらその思い出したと同時に、あの最後のいわゆるベルが鳴った訳です。だからもう、書く暇がない訳です。そしたらもう、それこそこういうことは前代未聞、初めてだちゅう、もう思い出した途端にですね、ベルが鳴ったらね、もう五分間延長しますて、先生がいわしゃった。
もうそんときに私有り難かったこと、もう一気にその五分間の間に、そのこれ書いてしもうて、そのテストが一番点数を稼ぐその問題であったから、もうたいへんおかげを頂いたというて、その帰って来て話しますとこういうんです。
ね、例えばそのお願いをするという、同じ「金光様、金光様」でもですね、内容がお願いであったときには、その斬新なものが生まれてこなかったけれども、ついこの前、光昭先生が言うておったことをです、思い出してから、はあ、ほんとに、さっきばらばらっと確かに見たところから出ておるけれども、その不熱心であったためによく覚えていないという、ね、そこであのーお願いをするよりもね、そういうときにはお詫びをせんならんと聞いとったことを思い出さしてもろうてから、勉強足りんことをお詫びさして頂きよったら、ふっと思い出した。
思い出したときには既に、時間切れであって、もうベルが鳴ったけれどもです、もうそれこそ前代未聞、初めてこういうことは、と、絶対そいうことはないそうですたい。それにそのどうしたことだったかしらんけれども、先生がですね、まるっきり私のために、いわゆる五分間延長しますということを言われて、その五分間の間に書かせて頂いたというげなです。
ね、もうそういうような、例えば子供ながらのおかげ話の中からでもです、ね、やはりそこに、変わった「金光様」、ね、いわゆるさらな「金光様」。それはまさかのときに唱える「金光様」とおんなじようなもの。ね、ですから信心の内容がいわば、願いから詫びにそこの場合は変わっておるところからです、さらな金光大神が唱えられたわけですけれども、私共が、日に日に例えば、天地の親神様のすさましいまでの働きをです、合楽のお広前では表して下さり、見せておって下さる。ほんとにすさましいまでですよ、そのすさましいまでの働きがあっておってもです、こちらの生き生きした、いわゆる信心がないと、そのすさましいまでの勢いのおかげを、いわば、すさましいまでに表していくこと、キャッチしていくことが出来るのですからね。どうぞ